2008年04月15日

東洋ってのが歴史を感じさせる。

でしょ!?

広島東洋カープ(ひろしまとうようカープ、Hiroshima Toyo Carp)は、日本のプロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。広島県を保護地域とし、同県広島市中区にある広島市民球場を専用球場(本拠地)としている。また、二軍(ウエスタン・リーグ所属)の本拠地は山口県岩国市にある広島東洋カープ由宇練習場である。

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親会社を持たない市民球団として結成されたという独自の歴史を持つ。現在は松田家による同族経営となっている。

壊滅の広島からプロ野球を 第一次暗黒時代

セ・リーグ優勝記念碑(広島市民球場横「勝鯉の森」内)

本拠地の広島市民球場・三塁側より 2004年3月14日(広島対ダイエー)撮影1949年シーズンオフのリーグ拡張方針を受け、原爆投下による壊滅的被害からの復興を目指しプロ球団を設立。同年12月15日にセントラル・リーグに加盟。広島市を流れる太田川は鯉の産地、しかも原爆で焼け落ちた広島城は“鯉城”とも呼ばれていたため、球団名を広島カープとした。翌1950年3月10日に福岡平和台球場で行われたセ・リーグ開幕戦の選手入場時に掲げられたプラカードには何故か「広島カープス」と書かれていた。
本拠地球場は広島総合球場。核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップが十分ではなく、監督の石本秀一自ら選手集めに奔走。投手に長谷川良平、内藤幸三、野手では白石勝巳、岩本章らが中心となったが寄せ集めのチームは著しく低迷。
1951年に深刻な球団経営状態から解散案、あるいは当時下関市にチームがあった大洋ホエールズとの合併案が持ち上がった。その時、球団の資金難を救うべく広島市民が酒樽に募金を募った「樽募金」で球団存続に必要な当時のお金で400万円を集めた。球団も四方八方手を尽くし解散を回避。この一件は、2001年5月1日放送のNHK「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」で「史上最大の集金作戦 広島カープ」として取り上げられた。

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翌1952年シーズン開幕前には、当時7球団だったセ・リーグの日程が組みにくいという理由のため、同年シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めがされた。設立より2年連続最下位だった広島が解散の最有力候補だったが、長谷川良平と杉浦竜太郎の2人でチーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)を稼ぎ勝率.316で解散を免れた(松竹ロビンスが最下位・勝率.288)。この年限りで石本は退任。代わりに赤嶺昌志一派の選手が集団で入団した。小鶴誠、金山次郎の入団だけで大パレードを敢行、続いて獲得に成功した日系二世選手・銭村兄弟(銭村健三・銭村健四)、光吉勉入団の際には更に盛大な大パレードを行い、10万人の歓迎で、市中紙吹雪が舞った。「人出は天皇ご巡幸の時よりも多かった」ともいわれた。(真説日本野球史7、P187、大和球士著、ベースボール・マガジン社)
1952年から1953年は球団の経営状態が極端に悪化し、ユニフォームは胸に「HIROSHIMA」と書かれた1種類だけしかなかった。しかもそのユニフォームは大下回春堂(フマキラー)から提供されていたため、この2年間のユニフォームには左袖部分にフマキラーのロゴマークが入っていた。
1953年のオールスターゲームのファン投票で、長谷川良平、小鶴誠、白石勝巳の3選手がトップ当選。当時の野球ファンを驚かせ、集団投票事件などと批判を浴びた。オールスターの「組織票」の最初のケースがこの年の広島カープと推測される。(真説日本野球史7、P187、大和球士著、ベースボール・マガジン社)
1953年 - 1960年まで白石が監督を務める。チーム成績は低迷するが、1960年にBクラスながら球団創設以来初の勝率5割とシーズン勝ち越しを果たした。その後、1961年から1962年まで準生え抜きの門前眞佐人が監督を務めたが、勝率5割を割り辞任。この間1957年7月より、広島市民球場に本拠地を移転した。白石は1963年 - 1965年シーズン途中まで2度目の監督を務めた。
1965年7月から長谷川監督が務めた後、1968年、東洋工業(現・マツダ)が筆頭株主となり球団名を現在の広島東洋カープに改称。同年、根本陸夫監督のもと3位となり、球団創設19年目にして初のAクラス入りを果たした。根本時代は成績こそ振るわなかったが、投手で外木場義郎、打者では衣笠祥雄、山本浩二、水谷実雄ら、のちの「赤ヘル軍団」の台頭を促した。しかし根本退任後の1972年以降は3年連続の最下位に終わる。
(以上、ウィキペディアより引用)

すごい球団なんですね!